休暇村から行ける明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域

世界遺産の画像をクリックすると、詳細がご覧になれます。

橋野鉄鉱山/高炉跡

橋野鉄鉱山/高炉跡

橋野高炉跡は現存する日本最古の洋式高炉跡で、近代製鉄の流れの発端となった場所。近代製鉄の父と呼ばれた大島高任の指導により築造され、3つの高炉跡のほか鉄鉱石の採掘場跡、運搬路跡などの関連資産が存在します。自然豊かな森林に囲まれた景観も魅力の一つ。

Googleマップで見る

韮山反射炉

韮山反射炉

実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存するのが韮山反射炉。反射炉とは、不純物を多く含む銑鉄(せんてつ)を溶かして優良な鉄を生産するための炉。銑鉄を溶かすには千数百度という高温が必要で、天井部分をドーム型とした溶解室に炎や熱を反射させ、高温を実現させました。炎や熱を反射させる炉であることから、反射炉と名づけられました。

Googleマップで見る

官営八幡製鐵所

官営八幡製鐵所

明治20年代に入ると、鉄道敷設や造船などの鉄鋼需要が急増。輸入に頼っていた鋼材の生産のために製鉄所の建設が急務となり、明治34年官営八幡製鐵所が完成しました。石炭の確保及び輸送などの条件のもと、国内最大の石炭産出量を誇る筑豊炭田に隣接する八幡に設置が決定。人口2,000人の村が、操業開始後は重工業の一大中心地となり、大いに発展しました。

Googleマップで見る

三重津海軍所跡

三重津海軍所跡

佐賀藩は江戸時代を通して、幕府の命により福岡藩と交代で長崎港の警備を行っていました。安政5(1858)年に艦船の根拠地として、また船の操縦や射撃等の訓練を行うほか、船の修船・造船を行う場として整備したのが三重津海軍所の始まりです。日本初の実用蒸気船となる「凌風丸(りょうふうまる)」を完成させたことでも有名。

Googleマップで見る

三池炭鉱 宮原坑/三池港

三池炭鉱 宮原坑/三池港

西洋の採炭技術を導入して開発された三池炭鉱では江戸時代中期から採掘が進められ、後に明治政府の官営模範炭鉱に指定されました。三池炭鉱の主要坑口は熊本県と福岡県に散在し、炭鉱鉄道によりそれぞれが繋がれました。また、三池炭を大型船で搬出するために築かれたのが三池港。貿易港としても栄え、現在も重要港湾として機能しています。

宮原坑をGoogleマップで見る 三池港をGoogleマップで見る

三角西港

三角西港

宮城県の野蒜(のびる)港、福井県の三国港と並び明治三大築港の一つ。三池港開港までの一時期は三池炭の国外への主要輸出港であり、オランダ人水利工師ムルドルの設計によって築港されました。120年以上の時を経た今も当時の姿を残しているのは、三角西(旧)港だけです。

Googleマップで見る

旧グラバー住宅

旧グラバー住宅

スコットランド生まれの貿易商人トーマス・ブレーク・グラバーが暮らしていた家で、現存する日本最古の木造洋風建築。1859年に来日したグラバーは造船業や炭鉱の開発の他、三菱合資会社の経営にアドバイスを与えるなど、日本の主要産業の近代化に貢献。グラバー住宅は1863年に建設され、大浦天主堂などを請け負った天草出身の小山秀之進が担当しました。

Googleマップで見る

端島炭坑(通称:軍艦島)

端島炭坑(通称:軍艦島)

炭坑の島として開発され、明治23年に三菱が取得した後は急速に近代化が進み、国内外の石炭需要を担いました。最盛期には約5,300人が暮らし、日本最古の鉄筋コンクリート造りのアパートなどが多く立ち並びましたが、石炭から石油へのエネルギー革命に伴い、1974年に閉山しました。

Googleマップで見る

旧集成館(反射炉跡・機械工場・鹿児島紡績所技師館)

旧集成館(反射炉跡・機械工場・鹿児島紡績所技師館)

薩摩藩主・島津斉彬は欧米による植民地化を防ぐため、西洋技術を積極的に導入しました。1852年には島津家の別邸“仙巌園”の敷地を切り開いて反射炉を建設し、一連の工場群は後に「集成館」と命名されました。斉彬の死後は忠義が集成館事業を継ぎ、機械工場を建設。また、紡績工場建設のために招いたイギリス人技師の宿舎“鹿児島紡績所技師館”は、洋風木造2階建の建築として現存する日本最古のものです。集成館は、薩英戦争、西南戦争と二度にわたる打撃で焼失しましたが、残された機械工場は島津家の資料展示室として改修され、現在は「尚古(しょうこ)集成館」となっています。

機械工場をGoogleマップで見る 反射炉跡をGoogleマップで見る 鹿児島紡績所技師館をGoogleマップで見る

寺山炭窯跡

寺山炭窯跡

集成館の事業に必要な燃料を製造する場所として、1858年に建設されました。堅牢な石積で造られた炭窯は、今も当時の姿を残しています。

Googleマップで見る

関吉の疎水溝 

関吉の疎水溝 

集成館事業の高炉などの動力には「水車」が用いられました。仙巌園には元々、下田町関吉から仙巌園に水を供給するための吉野疎水が築かれていたため、島津斉彬は1852年に新たな水路を築き、約7kmに渡って集成館の水車に水を引きました。

Googleマップで見る