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2025.02.26
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スタッフ:藤原
秋田市の中心JR秋田駅から徒歩10分ほどのところに千秋公園があります。
この公園はに秋田市指定名勝に指定された歴史ある公園で、多くのイベントが行われるなど観光地として、また憩いの場として人気のスポットです。
そんな千秋公園ですがかつてここには久保田城と呼ばれる城がたっていました。
久保田城は藩政時代の秋田藩で約300年居城とされた城でした。
そんな秋田を治めたのが佐竹氏。
かつて関東地方で勢力を拡大した武家で、1600年の関ヶ原の戦い後に秋田へとやってきました。
それ以来秋田の地を守り続けた佐竹氏でしたが、彼らの道のりは決して平坦なものではなく、壮絶な戦いを経てのものでした...

こんにちは!
今回も佐竹家物語を書いていきたいと思います。
前回は父佐竹義重より家督を譲られた代19代当主佐竹義宣を主人公に、
佐竹家が北条氏と決着をつけ正式に豊臣傘下大名となり、流れに乗りそのまま常陸全土の統一するまでを解説しました。
今回はそんな義宣編第二回!
常陸国を統一し豊臣政権でも大きな存在感を持つようになる佐竹家でしたが、この後天下分け目の大戦に巻き込まれることになります。
その際に義宣はとある重大な事件を起こすことになります...
「佐竹って秋田でよく聞くけどよくわからない...」
「久保田城に行くから佐竹家についてもっと知りたい!」
そんな方にピッタリな内容となっていますので今回も読んでいただけると嬉しいです!
佐竹家念願の常陸統一を成し遂げた後の1595年、豊臣秀吉は太閤検地で日本全国の大名の石高(領土)を確定させます。
この際佐竹家も秀吉より領土確定がされており、常陸国一国約55万石が佐竹家の正式な領土となりました。
これは当時の大名の中でも第5位の石高であり、佐竹義宣はこれにより日本でも有数の大大名に成長します。
そんな義宣でしたが突然危機が襲い掛かります。
1597年に佐竹家の傘下勢力である宇都宮家で養子縁組をめぐるトラブルが発生
これに怒った秀吉はなんと宇都宮家を改易処分にしてしまいました。
改易とは簡単に言うと大名家の解散命令であり、これは当時の処分としては死罪を除いて最も重い処分でした。
しかも秀吉は佐竹家にも責任があるとして勝手に佐竹家の改易も決めてしまったのです。
(人たらしといわれ温厚なイメージの秀吉ですが、こういう黒い面も目立つ人物です...)

絶体絶命の大ピンチにいきなりなってしまった義宣ですが、ここで意外な人物が手を差し伸べます。
その人物とは石田三成、後に関ヶ原の戦いで徳川家康と戦うことになる豊臣秀吉の側近です。
実は宇都宮家改易は秀吉が信頼していた古参幹部浅野長政の養子縁組を宇都宮側が断ったのが理由で、それに秀吉は怒っていたからとされています。
しかし三成は義重の時代から秀吉陣営と協力関係を結んでいた佐竹家の功績等を理由に秀吉を説得し、土壇場で佐竹家を改易の危機から救います。
この身内相手にも贔屓しない公平性と義を重んじる三成の姿勢に義宣は感銘を受け、
以来二人は親交をより深めるようになります。
豊臣秀吉の家臣として実直に行動したあまり「冷たい頑固者」と描かれがちな石田三成ですが
義宣との一連の交流からは彼の心優しい一面が垣間見えると思います。
しかし三成の実直さはこの後彼自身の運命を大きく変えることになります。

1598年(慶長3年)、史上初の天下統一を果たした豊臣秀吉がこの世を去ります。
その後石田三成は秀吉の遺言に従い五大老・五奉行制により豊臣政権の維持を図ります。
しかし内部では政務担当の「文治派」と、軍務担当の「武断派」の武将達の対立が表面化
この時武断派が頼った人物が後に徳川幕府を開く徳川家康でした。
家康は武断派を味方に引き込むことで発言力を拡大、五大老の中でも抜きんでた影響力を持つようになっていきます。


そして文治派と武断派の仲介役だった五大老前田利家が亡くなると、
1599年(慶長4年)加藤清正・福島正則ら武断派の主力武将が三成を襲撃する計画を立てます。
(七将襲撃事件)
大阪の前田家屋敷への訪問中に計画を事前に知った三成はひそかに前田家屋敷を脱出しますが周りは敵だらけ、まさに絶体絶命のピンチに陥ります。
この時三成を救ったのが義宣でした。
義宣は自身の屋敷に三成を避難させると追手から匿います。
そして女中の着物を着せると籠に乗せ、五大老の宇喜多秀家の屋敷まで三成を逃がしました。
これにより結果三成襲撃は失敗に終わります。
危険を顧みず三成を助けた義宣でしたが、根底には佐竹家をサポートしてくれていた三成への強い恩義がありました。
こういったエピソードからも義宣の律義な性格が表れているかと思います。
結果的にこの事件は徳川家康が仲介に入り石田三成の謹慎という形で幕を閉じます。
そして三成はこの後起こる大乱に向けて水面下で行動を起こすことになります。
ちなみにこの七将襲撃事件でもう一つ面白いエピソードがあるので紹介します。
三成を救った義宣でしたが、このことを一切隠さず堂々としていたことから、武断派から強烈なヘイトを集めることになります。
これを心配したのが義宣の茶の湯の師匠だった古田織部でした。
彼は義宣の立場を案じ、仲介役の家康に釈明するよう説得します。
しかし義宣は「三成は太閤殿下(秀吉)の意志に従って仕事をしていただけ、なのに加藤や福島は私情に任せて暗殺までしようとした。私が三成を助けたのはかつての恩義に報いるためであり、それで釈明をする理由はどこにもない」と断ります。
それを聞いた家康は「義宣が命を懸けてまで旧恩に報いたのはまさしく義であり、異存はない」と対立する立場ながら義宣を高く評価したと伝わっています。

石田三成を助けた義宣でしたがここからいよいよ天下分け目の大合戦「関ヶ原の戦い」が起こります。
そこで義宣がとった行動とは!
長くなりましたので続きは次回に!
次回も読んでいただけると嬉しいです╰(*´︶`*)╯
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