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2025.01.26
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スタッフ:藤原
秋田市の中心JR秋田駅から徒歩10分ほどのところに千秋公園があります。
この公園はに秋田市指定名勝に指定された歴史ある公園で、多くのイベントが行われるなど観光地として、また憩いの場として人気のスポットです。
そんな千秋公園ですがかつてここには久保田城と呼ばれる城がたっていました。
久保田城は藩政時代の秋田藩で約300年居城とされた城でした。
そんな秋田を治めたのが佐竹氏。
かつて関東地方で勢力を拡大した武家で、1600年の関ヶ原の戦い後に秋田へとやってきました。
それ以来秋田の地を守り続けた佐竹氏でしたが、彼らの道のりは決して平坦なものではなく、壮絶な戦いを経てのものでした...
こんにちは!
というわけで今回から全数回ほどに分けて秋田藩主佐竹家の物語を書いていきたいと思います😄
今回の主人公は佐竹家18代目当主佐竹義重。
戦国時代に生きた戦国武将で、「鬼」と呼ばれた人物です。
残念ながら知名度こそ高くはありませんが、その活躍はすさまじく
武の名門秋田藩の中興の祖として今でも語り継がれています。
「鬼義重」の異名を持つ佐竹義重、今回は彼の誕生とその躍進に迫ります。
「佐竹って秋田でよく聞くけどよくわからない...」
「久保田城に行くから佐竹家についてもっと知りたい!」
そんな方にピッタリな内容となっていますので読んでいただけると嬉しいです!
佐竹氏は源頼朝や足利尊氏を輩出した関東の名門、河内源氏の血を引く名家でした。
(武士のシンボル的存在だった「八幡太郎」源義家の弟・義光の子孫にあたります。)
平安時代に佐竹 昌義(さたけ まさよし)という人物によって常陸国(現在の茨城県)に拠点を移したのが始まりとされており、以来順調に勢力を拡大。
鎌倉時代には常陸北部地方の制圧に成功し、地元の有力豪族大掾氏と同盟を結び一気に有力勢力となります。
しかし1180年に源頼朝が挙兵し源平合戦が勃発。
当時のリーダー的存在であった佐竹義政は平氏に味方しましたが結果は惨敗。
義政も混乱の中で暗殺されてしまい、佐竹家の領土も没収されてしまいます。

大勢力に勝てないことを身をもって味わった佐竹家
それ以降は鎌倉幕府に従い、多くの合戦に参戦しますが北部地方の支配権は他家のものとなってしまい、不遇の時期を過ごすことになります。
ちなみに佐竹家の家紋である「日の丸扇」ができたのはこのころ
奥州合戦に参戦した際の家紋に無地の白旗を使っていたところ紛らわしいとの理由で
その上に扇子を付けられるように命じられました。
その際の扇子には満月が描かれておりその様を気に入った佐竹家はそれ以降
「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれる)を用いることになります。
室町時代には関東の八屋形と呼ばれる有力武家にこそ成長しましたが
関東では室町幕府と鎌倉公方との抗争が勃発中。
これに対処せざる負えず領内の統治をおろそかにした結果室町後期には内乱が勃発してしまい、
佐竹家の戦国大名化は著しく遅れることになってしまいます。
そんな中の1547(天文16)年、佐竹義重は17代当主佐竹義昭の長男として生まれます。
父義昭は常陸国統一を目指し各地で転戦していましたが無理がたたり35歳の若さで死去。
この時名門佐竹家の行く末は若干15歳の義重に託されました。

難しいかじ取りを託された義重でしたがいきなりピンチが訪れます。
名君として知られていた義昭の死により反佐竹勢力が活発化
まだ少年の義重を倒すべく各地で抗争が勃発しました。
各地の猛攻に苦戦する義重に一人の人物が手を差し伸べます。
その人物は上杉輝虎、のちに毘沙門天の化身といわれ恐れられる「軍神」上杉謙信でした。
(上記肖像画)
義昭と親交を深めていた謙信は義重のもとに自ら援軍として出兵してきていました。
これにより勢いづいた義重は反佐竹勢力を次第に追い詰めていきます。
そして反佐竹勢力の有力者小田宇治を手這坂の戦い(1569年)で破るとその居城小田城を奪取
ここから流れが大きく変わることになります。
1572年には周辺勢力の白河結城氏を傘下につけ、常陸国北部の大半を制圧。
そのあとには婚姻同盟を結んでいた岩城家を実質的な傘下に収めることに成功し、現在の福島県にまで領土を広げます。
1573年には小田宇治と再び戦いますがこれにも大勝
常陸国内部で義重と相対せる勢力は消え去り、常陸国統一目前にまで迫ります。

しかしそんな義重の存在は周辺勢力の危機感を抱かせることになりました。
ここで義重の前に立ちふさがったのが相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野(現在の1都3県)を領する日本でも屈指の大勢力、後北条氏でした。
北条氏四代当主北条氏政(上記肖像画)は巨大勢力のいない下野国(現在の栃木県)に進出、
関東の武士たちはこの緊急事態に一旦の停戦を結び反北条連合軍を結成しこの侵攻に備えることになります。この時の連合軍のリーダーに選ばれたのが義重でした。
1582年の神流川の戦いで織田軍に勝利し勢いに乗った北条軍は下野国沼尻に進軍
これに反撃する形で佐竹・ほか関東連合軍が合戦を仕掛けます。
沼尻合戦と呼ばれるこの戦いは北条軍7万に対し連合軍2万弱、不利なのは明らかでした。
しかし連合軍は地の利を生かした戦いで序盤戦を優勢に進めます。
この時連合軍が用意した鉄砲の数はなんと8000丁!
織田信長vs武田勝頼の「長篠の戦い」で双方が用意した鉄砲の数3,000丁を大きく上回っています。
結局2か月にわたるこの戦いは和睦という形で終止符が打たれますが
3倍以上の北条軍の侵攻を事実上佐竹義重は食い止めます。
この時義重は愛刀「八文字長義」を片手に自ら前線に出て戦っていたと伝わります。
その際にかかってきた敵兵7人を義重はたったの一太刀で倒してしまいます。
敵兵はなんと甲冑ごと真一文字にされてしまったのだとか
いや絶対噓でしょ...というエピソードなのですが当時の彼がどれほど恐れられていたのかがわかる逸話ですね。
この戦い以来敵味方問わず皆義重を恐れ、いつしか「鬼義重」という異名で呼ばれるようになります。

そんな義重ですが北部では快進撃を続けていました。
北の会津地方の大勢力蘆名氏は長年佐竹氏とは敵対関係を続けていましたが
1580年に当主蘆名盛氏が死去すると影響力が一気に低下
跡を継いだ蘆名盛隆はこれにより一転佐竹氏との融和路線に舵を切ります。
1581年の御代田合戦で本格的に会津に進出した義重は蘆名の居城黒川城を訪問。
常陸国と会津の大勢力同士の同盟(実質的な傘下同盟)が交わされることになりました。
これにより福島の仙道・海道の勢力は一気に佐竹氏に恭順
こうして佐竹氏は会津のほとんどの勢力を傘下に収めることに成功します。
この時義重35歳、若き奥州の覇者がここに誕生しました。
室町時代以降分裂を続けていた北関東・南奥州勢力を見事にまとめ上げた佐竹義重
「奥州統一」を掲げた奥州の覇者は快進撃を続けます。
しかしこの後さらに北からとんでもない強敵が彼の前に立ちふさがります!
長くなってしまったので続きは後編で!
是非後編も読んでいただけると嬉しいです😄
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