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2023.03.29

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新田義貞、明智光秀を結ぶ(?)寺~称念寺~

スタッフ:杉森

~寺が舟の会社をやっていた?~

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こんにちは!今更ですがみなさんWBCはご覧になりましたか。私は偶然お休みだったので、朝早く起きて決勝戦を観ました。テレビとはいえヒリヒリとした緊張感が伝わり、目が離せませんでしたが、3―2で日本が勝利し、世界一になった瞬間はテレビの前で思わず叫んでしまいました。本当に選手たちにおめでとうございますと感動をありがとうと伝えたい今日この頃、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。どうもスタッフの杉森です。
 
今回、坂井市丸岡町にある「称念寺」をご紹介したいと思います。
鎌倉時代、三国は日本海側で最も栄えた港でした。坂井平野でとれたお米や産物は九頭竜川や竹田川から舟で三国港へと運ばれました。そして長崎の庄には兵庫川があり、やはり舟が使われ運ばれたのです。時宗のお坊さんはこうした港などで布教したため、日本海側の各地に時宗の念仏道場が建てられたようです。越前地方で最も有力な道場になった称念寺もそのため、三国や富山県、新潟県にまでその勢力を伸ばしていたことが当時の大乗院文書からうかがえます。つまり称念寺の経済は海運業にたずさわる人によって支えられてきました。同時に光明院の倉というのは、今の総合商社の役割を果たしていました。

~南北朝時代に活躍した新田義貞の菩提寺~

~忠誠心高い悲運の将 新田義貞~
世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れ、その代表的な武士たちが足利尊氏や新田義貞、楠木正成です。そして鎌倉幕府を滅ぼした武士が新田義貞です。ところが足利と新田は争いとなり、南朝と北朝に別れ日本中を巻き込んだ戦乱の世になりました。ここ越前地方もそうした戦乱の舞台になりました。戦乱の中で味方を裏切ったり、兄弟で争ったりした時代に、新田一族は最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた武士でした。新田義貞は称念寺の住職と、古くより交友を深めていたので、その遺骸は時宗のお坊さん8人が輿に乗せ往生院称念寺に送り、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞の菩提寺として知られるようになりました。
敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、長禄2年安堵状と寺領を寄進し、将軍家祈祷所として栄えました。

~新田義貞の鎌倉攻め伝説「稲村ヶ崎の海」

難攻不落の要塞都市「鎌倉」を攻め落とした新田義貞。伝説では黄金の刀を稲村ケ崎の海に投げ入れ、奇跡的に出現した干潟を通って「鎌倉」を攻め落としたという事になっています。

ここ称念寺には、そんな「新田義貞」の墓があります。称念寺の住職との交友、敵方「足利氏」もうならせる武勇のお陰で、敗軍の将には立派すぎるお墓です。

~ここでも「明智光秀」推し~

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↑写真、これは「明智光秀」「照子」なのでしょうか?ちょっと夜は遠慮したくなる感じでした。また、境内には「明智光秀」の人となりや、夫婦愛を伝える看板も立っていました。

駐車場近くには、→このような看板もありました。ちょっと人形とかけ離れすぎていませんか。かっこよすぎます。

新田義貞、明智光秀の共通点
新田義貞公の生きられた時代は、南北朝の動乱と呼ばれた混乱と無秩序の時代でした。そんな中でも誠意を尽くし、まじめに生きた代表が新田義貞公です。義貞公の生涯は、苦しむ民衆を見て立ち上がり、難攻不落の鎌倉幕府を倒しました。戦い方は道義を重んじ、忠節を尽くし、姑息な政治手段を使いませんでした。また、明智光秀公は、主君を裏切った「三日天下」の武将と豊臣の時代に、その評価が作られてしまいました。また光秀公が坂本城主や亀山城主になった時にも、善政をひいて民衆から親しまれたことが今に伝えられています。新田義貞公の評価と一緒で、敗れた武将には、後世の評価に反論する機会がないのです。でも民衆はちゃんと伝承や、いい伝えで真実を伝えるものです。

今回は以上になります。二人とも素晴らしい武将でしたが敗軍の将の為、歴史が書き換えられてしまい、あたかも悪者の様に伝えられていました。不思議なもので、この二人の武将を結びつけるのが「称念寺」だったのです。何か特別な力があるのでしょうか。
お寺自体は現在、桜も咲いてとても落ち着いたいい場所になっているので一度寄ってみてはいかがでしょうか。もちろん休暇村越前三国もお待ちしております。

称念寺 福井県坂井市丸岡町長崎19-17 休暇村越前三国より車で約30分

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