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2023.05.03
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スタッフ:杉森

こんにちは!
いきなりですが、WBCで大活躍した大谷翔平選手、なんと地獄の17連戦を二刀流で全試合出場。ピッチャーでも勝利、バッターでもホームラン、想像以上の活躍。テレビで試合中継を見ていると、まるで野球少年のように楽しんでいる様に感じられ、このギャップが多くのファンの心を鷲掴みにしているのでしょう。世間のアンケートでは、部下にしたい有名人、上司にしたい有名人ともに第1位になっていました。これは大谷選手の人柄、野球に対する態度が多くの年齢層の人々に認知された事を証明するアンケート結果だと感心している今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。スタッフの杉森です。
今回は、同じ大谷ですが“翔平”ではなく“吉継”「大谷吉継」をご紹介したいと思います。
~「大谷吉継」の生涯~
出自…幼名紀之介。父は豊後国、大友氏の仕えていたと言われているが、定かではありません。母は秀吉の正妻「おね」の縁者東殿です。
秀吉に仕える…幼少の頃から秀吉の小姓として取り立てられました。同じ小姓に加藤清正、福島正則、一柳直末などがいました。後に刎頸の交わりなる「石田三成」もいたと言われており、三成とはこの頃からの顔見知りで、しかも同じ近江出身という事でウマがあったみたいです。

秀吉時代の活躍…本能寺の変が起こり、信長が自害に追い込まれます。知らせを聞いた羽柴秀吉は、毛利と直ちに和睦し、京に急行して明智光秀を討ちます。信長の仇討ちを果たし、清州会議を経て、秀吉は織田家重臣筆頭として台頭します。その一方で、柴田勝家は織田家筆頭家老でありながら、発言力が低下していきます。やがて羽柴秀吉と柴田勝家の対立は避けられなくなりました。
1583年4月に起きる賤ヶ岳の戦いにつながっていきます。羽柴秀吉は、柴田勝豊が守る長浜城を
「大谷吉継」に調略させ、長浜城ごと秀吉方に寝返り、これが功を奏し賤ヶ岳の戦いに勝利。
1585年秀吉が関白に叙任時には、同じく「大谷吉継」に従五位下刑部少輔に叙任され、これにより
「大谷刑部」と呼ばれるようになります。

1589年に越前敦賀郡2万石を拝領し敦賀城主に。1590年小田原征・奥州仕置に従軍、帰還後、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、3万石を加増され敦賀5万石を領することとなります。
~敦賀湊と「大谷吉継」~
「大谷吉継」が入封した敦賀は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であり、秀吉直系の家臣に掌握させることが重要です。 敦賀は吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、 出兵時の物資の調達拠点として大きな機能を果たしました。
~敦賀城の拡張と街の整備~
蜂谷頼隆により築城された敦賀城は、「大谷吉継」により拡張されました。城郭は、現在の結城町を中心に三島町1-2丁目に及ぶ範囲にありました。この城郭の拡張にともない町の整備にも力が注がれ、敦賀城内に攻め込まれないように城門付近の道を入り組んだ構造にしたり、城の近辺侍屋敷を設けられたりしました。また、商人や職人など、それぞれの職種ごとに分業した新しい町立ても始められました。

"来迎寺"
幕末に水戸藩の天狗党の烈士が大量に処刑されたお寺ですが、ここに敦賀城の城門が移築されています。

寺の中では吉継が寄進した木製の腰高障子(福井県指定文化財)も現存しています。

1592年朝鮮出兵(文禄・慶長の役)がはじまり、船奉行・軍監として事務を務めて、勲功を上げ、石田三成らと共に大部督の官位を受けることになります。(写真は現在の敦賀城跡)

"常宮神社"
朝鮮の役において、豊臣秀吉は吉継の見事な軍監ぶりを「百万の大軍の軍配を預けてみたい」と褒め讃えたそうです。

この役で持ち帰った「朝鮮鐘(国宝)」は、1597年吉継の手で常宮神社に奉納されたそうです。

1598年8月に秀吉が死去した後、武断派(加藤清正や福島正則など)は徳川家康を擁立して、対する文治派は家康の独断専行に対して危機感を感じ、二派の対立がのちの関ヶ原の戦いになりました。

文治派の中でも、「大谷吉継」は最初は天下の情勢を見極めて徳川家康に接近しました。しかし、「大谷吉継」が上杉討伐の為に兵を募り、石田三成の佐和山城に立ち寄った時、家康に対しての挙兵を持ちかけられました。
「勝機なし」と吉継は何度も説得しましたが、結局決意が固い三成を説得できず、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の西軍に参陣しました。失明した吉継は輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦になり、家臣・湯浅隆貞の介錯で、関ヶ原の戦い唯一切腹した武将として生涯を閉じました。
~石田三成への友情と関ヶ原の戦い~
こんなエピソードがあります。
大谷吉継は長年、重い病に悩まされていました。それは面貌が変わるほどのもの。
豊臣秀吉が開いた茶会で、出席者が茶碗に入った茶を回し飲みする際、病気を患っていた大谷吉継が口を付けた茶碗は、感染を恐れて誰もが飲むのを嫌がりました。そんななか、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲んだと伝えられています。大谷吉継は、変わらぬ親交を保ってくれた石田三成の「義」に応える方を選択したのです。
今回は以上になります。あまり知らなかったので、ドラマなどでは輿の上に乗り、白い頭巾被った変わった武将としかイメージがありませんでした。しかし、掘り下げていくと、いくつものエピソードが出てきて格好良さが際立ってきます。そんな「大谷吉継」が手掛けた敦賀の町や、「みなとつるが山車会館」へ足を運んでみませんか!もちろん休暇村越前三国もお待ちしております。
「みなとつるが山車会館」 福井県敦賀市相生町7−6 TEL 0770-21-5570
休暇村越前三国より車で約80分
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