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2026.04.02

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越前の地で牙を研いだ10年間

スタッフ:杉森

「本能寺の変」という歴史の転換点、その中心にいた明智光秀。
エリート軍師のイメージが強い彼ですが、織田信長に仕える前の約10年間、福井(越前)で牙を研いでいた時期があることをご存知でしょうか?
朝倉氏を頼り、貧しくも家族と寄り添い、村人に慕われながら過ごした「雌伏の時」。
今回は、福井市にある光秀ゆかりの「明智神社」と、娘・ガラシャ生誕の地、そして光秀が駆け抜けた「若狭・熊川宿」を巡る、歴史の足跡を辿る旅をご紹介します。

地域に守られた小さな社「明智神社」

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東大味(ひがしおおあじ)の静かな住宅街の中に、ひっそりと佇むのが「明智神社」です。ここはかつて光秀の屋敷があったとされる場所。
驚くべきは、この神社が「村人たちの手によって」400年以上も守られてきたということ。
逆賊の汚名を着せられた時代であっても、この地の恩人である光秀を、村人たちは「あけっつぁま」と呼び、密かに祀り続けてきました。神社の小さな祠の中には、光秀の木彫り像が大切に安置されています。
 
 
 

悲劇のヒロイン、細川ガラシャの産声

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神社の境内に立つと、一つの石碑が目に留まります。「細川ガラシャ公生誕地」と刻まれたその碑。
後に細川忠興の妻となり、壮絶な最期を遂げる「たま(ガラシャ)」は、ここ東大味で産声を上げました。
光秀と妻・煕子(ひろこ)、そして幼い「たま」。
戦国の世の荒波に揉まれる前の、穏やかで幸せな家族の時間が、確かにこの場所には流れていました。石碑の前に立つと、当時の家族の絆が時を超えて伝わってくるようです。

若狭の要衝、熊川宿と光秀の奔走

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越前での修行を経て、光秀は京へと目を向けます。その足跡を辿って若狭へと向かいました。
重要伝統的建造物群保存地区である「熊川宿(くまがわじゅく)」は、かつての宿場町の風情が今も色濃く残る場所。
光秀は、足利義昭を奉じて信長と朝倉氏を繋ぐため、この「鯖街道」を幾度となく駆け抜けたといいます。
さらさらと流れる前川の水音を聞きながら、格子戸の並ぶ街並みを歩くと、馬を走らせる光秀の背中が見えてくるような気がします。
福井で過ごした10年間は、光秀にとって苦労の連続だったはずです。しかし、この地で培った知性と、村人や家族との温かな交流が、後の名将としての礎となったのは間違いありません。
華やかな歴史の表舞台だけでなく、彼が大切に守ろうとした「平和」のルーツを、福井の静かな風景の中に見つけ出すことができました。

今回のご紹介は以上になります。是非小さな原点をご覧になりに来てください、もちろん休暇村越前三国もお待ちしております。

「明智神社」 福井県福井市東大味町 休暇村越前三国より車で約100分

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