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2022.06.01

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時代に翻弄された天才「橋本左内」

スタッフ:杉森

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こんにちは!スタッフの杉森です。
今回は幕末の志士にスポットを当てたいと思います。その名は「橋本左内」(はしもと さない)です。橋本左内は、1834年福井で藩医(医師)の長男として生まれました。7歳の時から、すでに勉強に熱心に取り組んでいて食事の時も本を離さない生活を続けていました。そして15歳の頃、「啓発録」という志をまとめた自己啓発の基本のような物を書き示しました。
ちなみに福井県では、15歳になると立志式という将来の目標を明らかにし、大人になる自覚を深める儀式を行う所が多いです。その始まりがまさにこの「啓発録」でした。
 

 

16歳の頃大阪に出て、医学・蘭学塾の「適塾」に入塾します。この適塾では「福沢諭吉」や「大村益次郎」などと一緒に学んだそうです。塾以外でも当時のトップレベルの学者等と交流を深め益々成長していきます。

そんな成長していく橋本左内をほっておく訳がなく、福井藩主「松平春嶽(まつだいら しゅんがく)の
書院番(藩主の親衛隊)に抜擢されます。ここから医者の道ではなく、政治の舞台に立つようになり、
江戸で松平春嶽の手足として奔走します。この頃「西郷隆盛」と運命的出会いをします。
橋本左内22歳、西郷隆盛29歳。お互い第一印象は良くなかったみたいで、橋本左内は「血気盛んなだけの若者」、西郷隆盛は「痩せてて虚弱に見え何だこいつ」とこんな感じだったそうです。しかし、改めて膝を正して話してみると西郷隆盛は「今日の談論、甚だ敗れり」と語ったそうです。

確かに身長180cmの西郷隆盛から見れば、身長151cmの橋本左内は貧弱に見えたのでしょう。しかし、その相手に論破され素直に尊敬し、友情を育んだ西郷隆盛も懐の深さも感じられます。

そしてこの後、橋本左内は時代に翻弄されていきます。
橋本左内の考えは、幕藩体制を維持した上で、西洋の先進技術を導入し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を考えていました。その為に西郷隆盛と「一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)」将軍擁立を目指しましたが、「井伊直弼(いい なおすけ)」が大老となり紀州藩主「徳川慶福(とくがわ よしとみ)」を独断で決定。一橋慶喜を担いでいた者をことごとく処罰し始めたのです。これが「安政の大獄」です。魔の手は橋本左内にも忍び寄り、江戸北町奉行所で6度の取り調べを受け死罪になりました。死刑になる時には牢主に代れるものなら代わりたいとまで言わせた程の人物でした。
1859年11月1日 享年26歳でした。友人であった西郷隆盛は「橋本まで死刑に逢い、悲憤千万堪え難き時世である」と悲しんだそうです。
 

幕末の時代を駆け抜けた橋本左内。この天才が26歳で生涯を終えてしまったのが勿体無くて仕方ありません。たらればはありませんが、もし生き延びていたらと考えてしまいます。

今回は橋本左内を紹介しましたが、福井にはこの様な偉人、天才がいるのが誇らしく思いました。
また、他にも幕末の志士がいますので紹介していきたいと思います。
是非、幕末の時代がお好きな方は雰囲気を感じに福井にお越し下さい。その際にはどうぞ休暇村越前三国に
お泊りをください!
 

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