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2022.11.30
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スタッフ:杉森

皆さんこんにちはスタッフの杉森です。
前回より、少し趣向を変えて福井県の歴史・伝説をご紹介しています。今回は「松龍寺」をご紹介したいと思いますが、先に「松龍寺」にまつわる怪談をお話ししていこうと思います。まず、この頃は「百姓の持ちたる国」となった加賀の一向宗門徒が、政治的にも対立する越前朝倉氏とたびたび合戦を繰り広げており、その最大のものが永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いである。この戦いで大敗して国外退去を余儀なくされた越前一向宗門徒は、その翌年の7月に加賀の門徒勢と共に越前領内に侵攻し、拠点回復のため朝倉軍と戦った。これが松龍寺付近でおこなわれた“帝釈堂の戦い”である。この戦いでも一揆勢は敗れ、玄任率いる300名余りの軍勢が全滅するなど多数の死者が出たのである。
そして戦から30日あまりして、帝釈堂近くの村々に怪しいものが出るようになり、夜な夜な家の門を叩く者があるので家人が戸を開けると、そこには頭のない青白い骸が4、5体立っていた。悲鳴を上げて戸を閉め、後から怖々覗くともう誰もいなかった。またある時には、突然窓から青色の生首が覗き込むやにっこりと笑いかけてきた。それを見た家の女房が棒立ちになっていると、そのまま掻き消すように見えなくなってしまった。

夕刻に3人の禅僧がを通りがかると、雲の上に数多くの兵の姿が現れ合戦を始めた。さらに光るものが100以上も飛んできて、鬼の様な姿をした者が火を吐きながら寄って来るのが見えて僧達は寺に逃げ帰りました。
そして冷たい雷雨の日などは、日中にもかかわらず、合戦がおこなわれているような物音が聞こえてくることまで起こった。そこで増信上人という僧が豊原寺の僧と共に帝釈堂で追善法要を執りおこなったところ、それからは奇怪なことが起こらなくなったという。
この“帝釈堂の戦い”で松龍寺も当然焼失したが、当時の住職であった霊仁和尚はこの地を去らず、草庵を建ててこの地で亡くなった者の霊を供養し続けたという。

松龍寺は奈良時代の養老年間(717~724年)に泰澄大師が帝釈天を祀ったことから建立された古刹(由緒ある古い寺)である。この地に仏教の教えを広めて歩いた泰澄大師が、仏教守護の帝釈天(たいしゃくてん)を祀ったことに始まり、寺には歴史を物語る数々の諸像・諸堂があるが、驚かされるのは24世智山上人が彫ったという千体仏だ。安政3年(1856)、能坂という地にあった「能坂長範物見の松」という名木が枯れたのですが彫刻をたしなんだ智山上人は、それを知って民衆のためにと、立木のままに大仏を作ったという。そしてさらに、木屑も大切に残して、そこから1000体の阿弥陀仏像を彫って寺に安置をした。

鐘門には、現在も鐘が吊るされており、門をくぐる際、鳴らす事ができます。

境内には、慈母観世音菩薩が佇んでいます。凛とした表情にも見えますし、優しい包み込む様な表情にも見えます。

この寺の山門の脇には簡素な堂があり、左から大日如来・阿弥陀如来・地蔵菩薩の3体の仏像が安置されている。地元では“三体仏堂”と呼ばれており、江戸時代の中頃に近在の人が慰霊のために建てたと言われています。現在も地元の方に愛されているそうです。
今回の「松龍寺」の紹介は以上になります。やはり、大きな戦いがあった場所は怪談話がでてきますね。こういう話は、起こった時代には説明できなかった事を、その土地で起こった悲惨な事例と結び付けて後世に伝えた、もしくは後世に二度とこの様な悲惨な事を引き起こさない様にという警告だったのかもしれませんね。
「松龍寺」福井県あわら市前谷11-2 休暇村越前三国より車で約30分
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