観光

2018.12.08

志賀島=金印の由来!

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スタッフ名:久永大三

なぜ?金印=志賀島なのか?

志賀島で金印が発掘されたのは良く知られています!
ではなぜ?どのように?発掘されたのか!!
おはようございます。
本日、朝の気温を見たら4℃でございました。
志賀島にも本格的な冬の訪れを感じる朝となりました。
今回はよくお客様からお尋ねいただく金印について説明したいと思います。
金印は江戸時代の天明4年(1784)2月23日、福岡県、志賀島の叶崎(金印公園)というところで発見されました。現在の太陽暦に換算すると4月12日にあたることから、農家が田植えの心づもりを始める頃だと思われます。残されたいくつかのデータを総合すると、田の溝の流れが悪いので、田の管理者、甚兵衛が秀治、喜平の二人に修理を依頼して溝を削って広げていたところ、二人で持たねばならないほどの大石に出くわし、それをカナテコで掘り起こして除けると金印が現れたということになるそうです。「石の間に光りそうろう物これありに付き。」と記されており、他の石の大きさへの言及はないし、石と石の間隔が狭かったようにも感じられる描写であります。石はそれほど大きくないし、箱のようだと表現した者もいます。三つの石で囲った小さな空間を作り、簡単には動かない大石で蓋をしていたらしいです。
 支石墓や石棺なら大石がたくさん必要なので、埋葬施設の可能性は消えますが、金印が不要だったとしても、捨てるのはあまりにも惜しい。金は溶かして再利用できるし、わざわざ石組みを作る必要もなかったのではないかと思われます。金印の発見された叶崎は現在でも集落から離れた辺鄙な場所ですが、古代はもっと辺鄙だったであろうと思われます。金印を納めた石組み以外にはなにもないから祭祀のためとも考えがたいです。
 墓の副葬品、廃棄、祭祀という可能性を消してゆくと、残るのは、必要な物ですから、人目につかないような場所を選び、石で囲い隠したというケースであると思われます。隠したいのなら、周辺風景にまぎれるよう偽装されたであろうと思われます。発見場所は現在整備されて金印公園になっていますが、海を超えた正面に能古島があります。大石と合わせてこれは良い目印になり、他にも現在の地形からはうかがい知れない目印があったかもしれません。
 そのあたりの適当な石を組合せたものでしょうから、雨が降るたびに、すき間から少しずつ土砂が流れ入り、ゆっくり埋まっていったと思われます。金印は傷一つなく古代のものとして美しすぎると難癖を付けられても、金は腐食しないので、遺構の中に残っていたということは、石囲いに守られ、ほとんど動いていないということだから当然と返せます。偽物作りは古色を装う様々な技巧を施すものです。金でできた貴重な物だし、封泥に使う印だから、当時の日本を思うと、実用品としてペタペタ押されたということも想像しにくいですね。権威の象徴として大事にしまい込まれ、時折見せびらかすという形ではないでしょうか。
 「魏志倭人伝から見える日本2、倭国の地理と風俗、奴国と金印」
 「魏志倭人伝の風景、伊都国、奴国」参照
 金印は甚兵衛が保有していましたが、周辺にうわさが広まり、藩の咎めを受けるかもしれないと恐れた庄屋が勧めたのか、二十日ほど経ってから、口上書とともに那珂郡役所に差し出されました。庄屋と村の組頭二人が甚兵衛の言うことに間違いはないと保証しており、郡役所はそれを福岡藩に届け、藩は並立していた二つの藩校、甘棠館、修猷館に鑑定を求めました。館長、教員はすべて儒者であり、中国思想の研究と教育を務めとしています。日常的に漢文に接しているし、中国史書の知識は必須といえるものだから、日本関係の記述もすでに馴染みがあったのでしょう。
ちょっと長々と堅い話になってしまいましたがこれに興味をお持ちの方は是非、志賀島に遊びに来ていただければ幸いです。

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