織田家四天王の一人「丹羽長秀」菩提所 -総光寺-
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スタッフ名:杉森
こんにちは!
急に寒くなり、一体秋はどこにいってしまったのでしょうか?せっかくの食欲の秋をとばして冬になっても休暇村越前三国は“越前蟹”がはじまり、皆さんに堪能して戴いています。
初日こそ漁に出港できず、皆様にはご迷惑をお掛けしましたが、現在は新鮮な“越前蟹”をご提供できるようになりました。そして、皆様が召し上がっているのを羨望の眼差しでみている今日のこの頃、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
スタッフの杉森です。
今回はご紹介するのは「丹羽長秀」とその菩提所「総光寺」です。「丹羽長秀」は確かに織田家四天王の一人ですが、ちょっと地味な感じがします。しかし、織田信長には「友であり兄弟」と言わしめ、または「米五郎左」と言われ織田家に無くてはならない存在だったそうです。
-多岐に亘る才能をもつクレバーな武将-
家臣団で初の国持大名…朝倉・浅井家との戦いで、浅井家の家臣が守る「佐和山城」を攻囲して勝利に貢献し、その翌年には、代わって同城の城主となりました。1573年、朝倉家を滅ぼした“一乗谷の戦い”で、朝倉義景の母とその世継ぎであった「愛王丸」の捜索にあたり、信長の命で2人を殺害。その後も「丹羽長秀」は度々信長の命で、世継ぎなどの殺害をこなしていきました。そして、この功績により若狭国を拝領し家臣団初の国持大名になりました。
大型船の造船…天下統一を目指す織田信長と、室町幕府の再興を熱望していた足利義昭は、やがて対立するようになり、信長は足利義昭が立てこもる「二条御所」へ向けて挙兵を決意します。京へ向かう途中、足利義昭に味方する六角家や本願寺門徒を避ける為、琵琶湖を船で渡るという迂回策が企てられ、「丹羽長秀」はこの時の船の建造を任されました。船が出来上がり、難なく琵琶湖を進み足利義昭の「二条御所」を落とし、室町幕府を崩壊へ追い込みました。
安土城の普請…信長の本拠地「岐阜城」は京から遠いため、琵琶湖東岸の安土に居城を移すことになり、その築城総奉行に「丹羽長秀」が任命されました。1571年の「比叡山延暦寺」の焼き討ちの事後処理を任されていた「丹羽長秀」は、焼け残った石垣の堅牢さに注目し、その石垣を築いた穴太衆に協力を仰ぎ「安土城」の築城を成功させました。
-若狭の国を遠隔統治実力と謙虚な一面-
若狭の石高は8万5千石ほどで、それほど大きな国ではありませんでしたが、京に物資を運ぶための海運の拠点であり、流通に関しては、畿内における重要な地域であったと言えます。近江から見て若狭は、そう遠くはありませんが、それでも遠隔地の行政はなかなか難しいものです。若狭には”若狭武田氏”という守護大名がいたのですが、当時の当主・武田元明が若年だったことと、信長の威勢により抑え込め、長秀は大きな混乱も起こさず、うまくこなしてみせました。
謙虚な武将…朝廷から信長に対し、官位昇進の勅諚が出ましたが信長はこれを辞退。代わりに家臣立ちに官位や名誉ある姓をもらえるよう願いで、羽柴秀吉は「筑前守」、明智光秀は「惟任」、丹羽長秀は「惟佳」を与えるのですが辞退します。この時「拙者は生涯、五郎左のままで結構」と言ったそうです。最終的には信長にゴリ押しによって、受け入れたそうです。
-「丹羽長秀」の人生後半-
本能寺の変…1582年、本能寺の変が起きました。その時「丹羽長秀」は四国に向かうべく大阪にまで出陣していましたが、中国攻めで備中から引き返してきた秀吉と合流・連携し、山崎の戦いで光秀を敗走させました。その後開かれた清須会議では、信長の後継者にその孫の三法師を推した秀吉を支持し、さらに若狭一国と近江国滋賀・高島の二郡を領することになりました。
賤ヶ岳の戦い…1583年、賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に味方。戦果を上げて秀吉の勝利に貢献しました。この時、大軍を率いて勝家を追撃し、越前北庄城へ追い詰め勝家は自害。また、勝家に加担した佐久間盛政らを拘束して、秀吉に送還しました。戦後、越前国の大半と加賀国能美郡120万石が与えられて、北庄(福井市)に移ることになりました。
その後は心中穏やかではなかったでしょうが、「豊臣政権樹立」に樹立に貢献しました。
「丹羽長秀」は51歳で生涯を終えました。亡くなった時「腹にできたしこりの痛みに耐えきれず、また秀吉への恨みの念から、自らしこりをえぐり出して秀吉に送り付けた」という逸話が残っています。実際にはこのような事はなかったでしょうが、「丹羽長秀」が最晩年に秀吉をよく思っていないという言動をしていたからこそ、このような話が伝えられたのでしょう。
-総光寺 丹羽長秀・長正の墓-
丹羽長秀が菩提所として創建した曹洞宗のお寺。小松に移転されるが、その跡地に宗徳寺というお寺が建ち長秀の墓を守っていましたが廃寺となり江戸時代に福井藩重臣芦田氏によって再興されます。
総光寺裏手に「丹羽長秀公御墓」があります。右側が長秀の御墓、左側は次男の長正の御墓になっています。長正は兄長重と共に前田利長と戦い、戦後に徳川家康に改易されています。後に兄長重は許されて大名に復帰しますが、弟長正が大坂の陣で豊臣方として戦いますが、夏の陣の直前に離脱して福井に隠居し、1620年に死去しています。
その後の丹羽家…血筋は残り続けました。直系男子は江戸時代に断絶していますが、三男・丹羽高吉が藤堂氏の分家・名張藤堂家の祖となり、続いています。また、六男の家系も存続しました。さらに、正室生まれの娘・定光院が稲葉氏に嫁ぎ、その子孫が仁孝天皇となっています。つまり長秀は、現在の皇室にとっても先祖の一人なのです。血を残すことが武家の最大の使命であるとするならば、長秀は十二分に“勝ち組”といえるでしょう。
今回の紹介は以上になります。以外に近い場所で実力のある武将・大名の御墓かあるとは、びっくりしました。また、柴田勝家の菩提寺「西光寺」とは800mの距離にあり、織田四天王の内2人の墓所を巡ることができます。一度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
ちなみに福井県越前市には滝川一益のものと伝わる墓「霊泉寺」もあり、福井県内には織田四天王のうち3武将の墓があります。※織田四天王 柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀
「総光寺」 福井市つくも2丁目16−3 休暇村越前三国より車で約60分 駐車場が無いのでご注意を!