秋田市の中心JR秋田駅から徒歩10分ほどのところに千秋公園があります。
この公園はに秋田市指定名勝に指定された歴史ある公園で、多くのイベントが行われるなど観光地として、また憩いの場として人気のスポットです。
そんな千秋公園ですがかつてここには久保田城と呼ばれる城がたっていました。
久保田城は藩政時代の秋田藩で約300年居城とされた城でした。
そんな秋田を治めたのが佐竹氏。
かつて関東地方で勢力を拡大した武家で、1600年の関ヶ原の戦い後に秋田へとやってきました。
それ以来秋田の地を守り続けた佐竹氏でしたが、彼らの道のりは決して平坦なものではなく、壮絶な戦いを経てのものでした...
こんにちは!
今回も佐竹家物語を書いていきたいと思います。
今回の主人公は佐竹家代19代当主佐竹義宣!
2回にわたってその生涯を解説してきた18代当主佐竹義重の長男であり、後の秋田藩初代藩主になる人物です。
前回は義重が佐竹家最大版図を築くも伊達政宗に敗れるまでを解説してきました。
今回は義宣が危機的状況をどのように乗り越え当主になっていったかを書いていきたいと思います。
「佐竹って秋田でよく聞くけどよくわからない...」
「久保田城に行くから佐竹家についてもっと知りたい!」
そんな方にピッタリな内容となっていますので今回も読んでいただけると嬉しいです!
幼少期
佐竹義宣は元亀元年(1570年)7月16日佐竹家18代当主佐竹義重の嫡男として常陸国太田城(現在の茨城県常陸太田市)に生まれました。幼名は徳寿丸と名乗っていたそうです。
この時義重は下野国の那須資胤と戦を行っており、義宣の顔を見ることができたのは和睦した後だったそうです。
この時那須資胤の娘を佐竹家に嫁がせるのが和睦の条件だったとされ、1572年に資胤の娘正洞院を正妻として迎えています。この時義宣わずか3歳。いろいろ破天荒ですね
ちなみに義宣の母親は伊達晴宗の娘宝寿院であり、伊達晴宗は伊達政宗の祖父に当たります。
つまり義宣にとって政宗は母方のいとこにあたるのですが、前回の解説にもあったように佐竹家と伊達家はこのころから戦を繰り返すようになります...
家督相続するも...
1586年に北条氏との戦いで初陣を飾った義宣
その年のうちに父義重から家督を譲られます。
しかし名目上の当主であり、実権はこの後も義重が握ることになります。
このころ佐竹家は義重の手腕により会津芦名家に次男義弘を養子入りさせ当主にするなど
南奥州の絶対的なトップに君臨していました。
ここまでは順風満帆な人生を送っていた義宣
しかしここから苦難が待ち受けます。
会津芦名家の影響力低下を狙った伊達政宗が本格的に会津進攻に動きました。
義宣も蘆名家の援軍に行きますが思うように動くことができません。
理由は豊臣秀吉が惣無事令という許可のない戦を禁止する法律を出したためでした。
この法律一見よさそうに見えますが戦の罰則が両成敗(両方に罰則を与える)ものだったため
戦をすること自体がNGという欠点がありました。
これをガン無視した政宗は戦争ができないことをいいことに他国に攻め込みます。
そしてついに1589年、蘆名家は摺上原の戦いで伊達軍と対戦、これに大敗します。
猪苗代湖近くの摺上原で行われたこの戦いで蘆名家は滅亡、この責任を取り父義重も隠居してしまいます。
これにより佐竹家は北は伊達、南は北条と二大勢力に挟み撃ちにされることになり、一気に滅亡の危機に瀕してしまいます。
危機一髪!幸運をつかむ義宣
滅亡の危機にさらされた佐竹家、義宣は政宗との決戦に備えます。
しかし1590年、思いもよらない出来事が起こります。
豊臣政権を確立した豊臣秀吉が北条氏討伐を決意し、約10万以上の大軍を引き連れ小田原に向かいます。
義宣は秀吉自らが京を出立したという知らせを聞き1万ほどの軍勢を集め北条氏の軍勢と戦いながら小田原に向かいます。
いわゆる「小田原征伐」と呼ばれるこの戦いは「真田丸」等で有名な真田家と北条家との抗争が理由とされていますが、佐竹家といった北関東勢力と秀吉が密接につながっていたのも理由の一つだと言われています。
義宣は小田原征伐期間中忍城攻めなどで武功を上げ、秀吉からの信頼を得ます。
そしてこの情勢を見ていた政宗もついに動き、小田原に参陣し秀吉に謝罪し軍門に下る道を選びます。
貴重な同盟国を失った北条氏はこれにより戦意を喪失、秀吉に降伏し佐竹家と幾度と戦った北条氏政も切腹し、
約半年にわたる小田原征伐は最終的に北条氏滅亡で終結します。
義宣も父義重と共に改めて秀吉に臣従し、豊臣政権の大名として活動していくことになります。
佐竹家、常陸国統一へ
小田原征伐が終わった後秀吉は傘下の大名を動員し奥州の大規模な制圧戦を行います。(奥州仕置)
義宣もこれに参加し、本領である常陸国の領土安堵を獲得します。
領土安堵こそ獲得した義宣でしたが、いまだ常陸国は佐竹家に従わない家が多く、義宣はこの勢力としばらく戦い続けることになります。
そして1591年、南方三十三館と呼ばれる地域の豪族たちを攻め滅ぼした義宣は常陸国全域の支配権確立に成功します。
小田原征伐から約2年のスピード制圧にはもちろん豊臣政権の優遇もあったとされていますが、義宣が領土安堵の直後から綿密に計画を練っていたとされており、ここから義宣の用意周到で頭脳派な一面が垣間見えます。
こうして義宣は豊臣政権という強大な力を借りながらも鎌倉時代より続いた佐竹家の目標である常陸国全域の統一を実現しました。
ここから豊臣政権でより存在感を高めていく義宣ですが、この10年後さらなる困難が佐竹家を待ち受けます...
続きは次回に!
次回も読んでいただけると嬉しいです!
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