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2021.10.02

裏磐梯の昔むかしのこと・・・

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スタッフ名:高梨

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 この写真は、桧原湖北部の金山(かねやま)集落から見た磐梯山です。
 磐梯山の手前の山は、桧原湖の北部に半島状にそびえる堂場山で、今から450年ほど前、この山の頂上に、会津芦名家の武将、穴澤一族の山城がありました。
 もっとも当時は1888年の磐梯山の大噴火のずっと前なので湖はありませんでしたし、磐梯山自体も噴火前の別な山容でありました・・・。
 
 さて今日は、裏磐梯の古い時代のお話です。

 休暇村裏磐梯がある「うらばんだい」という地名は、磐梯山の北側の地域を指しますが、実は、通称であり正式な地名ではありません。「うら」があるのは「おもて」があるからで、表磐梯とは、磐梯山の南側~猪苗代町方面のことです。昔から人口が圧倒的に表の方が多かったのでこのように定着しています。
 
 裏磐梯地区は、現在の住所表記では、全域、「北塩原村大字桧原」になりますが、これは昭和28年の北山村・大塩村・桧原村の3村合併の時に漢字1文字ずつをとって新たに付けられた「北塩原村」の一部の、大字桧原ということです。以前、裏磐梯は「桧原村」だったのです。
 
 「桧原(ひばら)」という地名は中世の16世紀ごろから使われていましたが、さらにそれ以前は「檜木谷地(ひのきやち)」という呼称がありました。これは「ヒノキの多い谷地、湿地」という意味で、当時の面影を残す場所が、現在も残っています。次の写真です。
 
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 これは金山・早稲沢付近の桧原湖北端で、春先の水位が下がった時に現れた多数のヒノキの切り株です。これが500年ほども前に、「檜木谷地」と呼ばれた名残なのです。
 
 16世紀の話となると、戦国時代の名将、伊達政宗がこの地にも関わってきます。裏磐梯の山一つ越えた北側は、伊達政宗のもともとの本拠地、長井(今の山形県米沢地方一帯)で、政宗の父の伊達輝宗の時代から、領地争いがありました。現在、金山(かねやま)と呼ばれている集落は、会津藩の隠し金山(きんざん)だったところで、伊達政宗がそれを強奪するための領地争いでもあった(?)と言います。

 
明治まで採掘されていた金山の隆盛期の様子。磐梯山の噴火でできた桧原湖に坑道が水没し、廃鉱に。
かねやま地区に残る金山精錬所の跡。森の中に四角な台地が残っています。
精錬所跡の説明です。
金山地区一帯の湖岸線の石は、いかにも金が含まれていそうな石英ばかりの白い石です。
 このほか桧原湖北部には、伊達政宗の築城した小谷山城址、伊達家を迎え撃つ会津・穴澤一族の城跡(巌山城址)や五輪塔(墓)などが、今もひっそりと見られます。

 下の写真の左側の水色の点の場所に小谷山城があり、右のピンクの点の場所に巌(岩)山城址がありました。
 
 
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説明版にある小谷山城の昔の様子です。伊達政宗築城です。 
会津芦名の穴澤一族の五輪塔(墓)。戒名は院殿号ばかりです。
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 上の連続3枚は、桧原歴史館のなかのジオラマ、噴火でできた湖に沈んだ桧原宿のようすで、ボタンを押すと湖の中から桧原宿が見えてきます! これはなかなかよくできています。

 最後のジオラマの湖岸線ぎりぎりの陸地にある赤い建物が、大山祇神社。有名な湖底に続く鳥居と杉木立の切り株です。(次の写真)
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 そしてそれら、古い桧原の名所史跡の資料や歴史をまとめた「桧原歴史館」が桧原湖北端に建っています。(次の写真)
 
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 桧原歴史館は、会津山塩ラーメンの超人気店「奥裏磐梯らぁめんや」と同じ屋根の下の建物(昔の倹断屋敷)でもあります。
 
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 桧原湖と磐梯山を眺めながら「会津山塩ラーメン」を食していると、不思議な歴史感覚に包まれます。伊達政宗の戦国時代と、磐梯山噴火の明治時代と、現代に生きる自分が、時代は違え同じ空間に居るのです!
 
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 休暇村裏磐梯に宿泊した翌日の行動として、桧原湖一周ドライブをしながら、これらの古い裏磐梯めぐり~「桧原歴史さんぽ」は、とてもお薦めできるコースとなります。上の地図を頼りに歩いてみてください。(図中の「現在地」はここでは関係ありません。)

 

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