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2023.11.29

水戸天狗党、最後の地-「武田耕雲斎等墓」-

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スタッフ名:杉森

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こんにちは!
なんと、阪神タイガースとオリックス・バファローズの、リーグ優勝を記念したパレードが大阪・御堂筋と神戸市で開催されました。セ・パ両リーグが同日開催するのは史上初です。主催者によると、大阪市に約55万人、神戸市に約45万人の計100万人が詰めかけたそうです。関西地方でリーグ優勝、日本一が出るとは思って無かったと思います。なので地元の皆さんは大変盛り上がった事でしょう。そんな明るい話題がある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
スタッフの杉森です。

今回は、「武田耕雲斎等墓」へ行ってきたので、「水戸天狗党」と福井県や悲しい最後についてご紹介したいと思います。
「水戸天狗党」とは・・・
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今から100年余り前の幕末の頃、尊王攘夷を目的とした集団で、1864年に「武田耕雲斎」らの一味が、筑波山に挙兵して、天下を驚かした義兵たちのことです。
 この義兵集団をなぜ天狗党といったのかははっきりしません。一説によると、ある会合のとき、たまたま尊王攘夷の話に花が咲き、いろいろ議論したすえに、“もしも京都と幕府との間に不調和な事態が生じたら、いったいわれわれは、天皇と幕府とのどちらにつくべきか”と提案した者がおり、ちょうど、その席におられた藤田東湖先生が“京都についた方がこれだよ”といって、鼻の頭にこぶしを重ねて天狗のまねをしました。それ以来、京都方についた者は天狗のように鼻が高いという意味で、尊王攘夷の人たちの集団を天狗党といったといわれています。
「天狗党の乱」とは・・・
8代水戸藩藩主徳川斉脩には子がなかったため、次期藩主となる継嗣が問題となっていました。ここから11代将軍徳川家斉の子 恒之丞(後の12代紀州藩主徳川斉彊 )を支持する保守派と、7代藩主治紀の子 敬三郎(後の9代藩主斉昭)を支持する改革派(天狗党)との間 で対立が生まれ、次第に発展していくことになります。両派の対立が深刻化する中で、改革派の中から尊王攘夷を強硬に主張する一派が生まれました。そして1864年3月、ついに同派の首領格 藤田小四郎が、国政上の課題でもあった横浜港鎖港を実現しようと筑波山で挙兵しました。この時の動きは関東に止まり、目的を果たす前に鎮圧されました。脱出した天狗党は、同年11月1日、改革派の家老「武田耕雲斎」を将に立てて再び挙兵、、同じ く横浜港鎖港を主張していた禁裏御守衛総督 一橋慶喜(斉昭の子)を頼って西上を開始しました。一行は幕府から「浮浪之徒」と呼ばれて先々で諸藩に行く手を阻まれましたが、行路を変更しながら京都を目指して西上を続けました。そして美濃国から尾張国へ入る手前で進路を北に変え、12月4日、蠅帽子峠を越えて越前国に入りました。
追討軍の前に降伏
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しかし、頼みの綱の慶喜が天狗党追討軍の総大将であることがわかり、包囲の環が迫って行く手もふさがれたため、追討軍による総攻撃直前の12月11日、天狗党一行 823名はやむなく降伏の道を選びました。初めは加賀藩に預けられ、丁重な扱いを受けますが、幕府に引き渡された後は、肥料となる鰊粕を貯蔵する蔵16棟に送られ、罪人の扱いを受けることとなります。その内353名は形式的な取り調べを受けて斬罪となり、1865年2月、敦賀市松島町の来迎寺境内で刑に処せられました。この時、福井藩は春嶽が一方的な浪士の賊徒扱いを好まずと言って太刀役を断ったとされています。残る約470名も遠島・追放・水戸渡し・寺預け・江戸送りとなり、水戸で始まった天狗党の乱は、敦賀で終息することとなりました。


写真は武田耕雲斎をはじめとする水戸烈士の墓(国の史跡に指定されています)
 
非人道的扱いをされて・・・鯡蔵
鯡蔵に押し込められ、中は窓はすべて塞がれ、筵と中央に便所桶が置かれていただけの劣悪な環境であったようです。また、浪士たちの食事は1日に握飯1つとぬるま湯が2度与えられるだけであったと伝えられています。
船町にあった荷蔵16棟は戦後、敦賀港修築工事で撤去が計画されていましたが、保存を希望する住民の運動を受け、1954年に「水戸烈士記念館」として移築されました。現在は改修工事が行われ見る事ができません。
今回のご紹介は以上になります。幕末の熱い時代に志をもって立身し、悲しい結末を迎えた「水戸天狗党の仲間たちと武田耕雲斎」。一緒にこの時代を過ごしてみたいと思わせてくれる場所でした。幕末を感じるのにいい場所なので一度行ってみてはいかがでしょうか。

「武田耕雲斎等の墓」 敦賀市松島町2丁目9 休暇村越前三国より車で約80分
 

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