磐梯山噴火の前と後 ~なぜ湖中に鳥居が・・・
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スタッフ名:高梨
皆さんこんにちは。今日は、磐梯山ジオパークのジオサイトにもなっている、この時期にだけ現れる「湖中の鳥居」について、地域の歴史とともにご紹介します。
まず、次の写真をじっくりご覧ください。
これは桧原湖北端にある大山祇神社の下の鳥居です。鳥居とは、言わば「神域への門」であり、人がお参りのため通るものですが、それが凍った湖のなかに立っています。
桧原湖の水は、東京電力が水力発電に利用するため定期的に水位が上下しますが、春先の今の時期が最も低くなり、下の鳥居が氷上に現れます。
ということは、この鳥居のさらに下に人間界があり、人々が生活していたことを意味します。磐梯山噴火前の桧原本村です。旧桧原村の中心地だったところです。
次の写真は上の鳥居から見下ろしたものですが、下の鳥居のさらに先、氷上わかさぎ釣りのテントが林立するあたりの下に桧原本村があったのです。(手前のいくつかの塊は参道の杉並木の根株です。)
桧原本村は、旧米澤街道(会津藩と米沢藩を結ぶ街道)の宿場町であり、会津藩の隠し金山もあって賑わったところです。さらにさかのぼる中世には、米沢の伊達輝宗・政宗親子の会津侵攻で4度、戦の場となったところです。
これらの歴史舞台の桧原本村は、1888年(明治21年)の磐梯山噴火による岩なだれで旧桧原川が堰き止められ誕生した桧原湖に沈んだのです。
神社からは手前の山に隠れて磐梯山は見えませんが、少し東に移動すると見えてきて、
次の写真になります。
磐梯山までは約15kmあります。磐梯山の左の峰の櫛ケ峰を半分隠しているのは檜原湖中の堂場山半島で、この山の頂上に伊達軍を迎え撃った会津軍の穴澤一族の山城がありました。
伊達政宗軍は、次の写真の中央近く不等辺三角形の丘の上に小谷山城を築き、会津侵攻を企てたのです。(城址まで遊歩道ができていて、城の土塁・堀などが今もわかります。)
結局、策略の得意な伊達政宗に敗れ、会津は占領されますが、秀吉の奥州仕置により、政宗はまた桧原峠を越え米沢に退却することになったのです。
この写真の右端の白い秀峰は、流れやすい溶岩でできた吾妻連峰の西大巓(1982m)です。
湖中の鳥居は、人の歴史と磐梯山噴火という自然事象とのかかわりを示していますが、それらを悠然と見下すかのような西大巓の姿は、さらに大昔の地球の胎動のようなものを感じさせてくれます。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
(今日の写真は、いずれも2021年2月25日撮影のものです。)