「磐梯山ジオパーク」へのお誘い その2
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スタッフ名:高梨
本日は「磐梯山ジオパーク」へのお誘い その2 として、3月18日のブログに続き、表磐梯から見た磐梯山をご案内いたします。表磐梯とは、磐梯山の南側、猪苗代町・磐梯町・会津若松市から見た磐梯山ということです。
(↑写真 「磐梯山と磐梯山岩なだれカレー」(道の駅ばんだいのレストランにて))
こちらは、北側の裏磐梯よりはるかに多くの人々が昔から住んでいたので、「自然」というよりも「人文」、すなわち信仰、宗教、生活などとの関わりが濃厚です。
でも同時に、裏磐梯の明治の噴火と同様な、いやそれ以上の規模の大噴火、山体崩壊→岩なだれ→流れ山地形の形成 もあったのです。それは今から約5万年前のこと、この地方の最も古い旧石器遺跡より古く、まだ人間が住んでいなかったころのお話です。
そしてこれにより、堰止湖として猪苗代湖が誕生しました。(4万年前ごろ)
(↓ 会津盆地から見た磐梯山 中景の黒い森が「流れ山地形」)
(↓↓会津盆地と磐梯山の中間地点から見た磐梯山と「流れ山地形」。中景の田畑でない所は全て流山地形です。)
(↑ 猪苗代湖と磐梯山)
起伏に富む「流れ山地形」を中心とした大地は、狩猟採集生活では最高の舞台となりました。猪苗代湖北西岸近くの笹山原遺跡は会津最初の旧石器遺跡、磐梯山サービスエリア付近に広がっていた法生尻遺跡は東日本最大級の縄文中期の遺跡で、青森の三内丸山遺跡と同様、当時の大都会は東北地方にあったのです。
平地・平野が一番の豊かな大地となったのは、農耕文化の古墳時代以降の話です。
古代から中世にかけて、磐梯山麓には、東日本を代表する仏教寺院ができました。磐梯町にある慧日寺(えにちじ)です。当時は最澄・空海が日本仏教の担い手でしたが、その最澄に宗教論争をいどみ、都会の生活での堕落とは無縁の、山岳修行を旨とした法相宗をおこした徳一上人が興した東北最古の寺です。会津盆地の北東、磐梯山麓にあります。徳一が「ここに寺を構える」と決めたのは、豊かな会津盆地の一角の、いかにも霊峰としてそびえる磐梯山の存在があってのことだったのでしょう。
慧日寺は、1589年伊達政宗の焼き討ちにあい焼失してしまいましたが、寺跡は国の史跡に指定され、金堂と中門が平成年間に再建されました。寺には、国重要文化財として密教仏具の白銅三鈷杵(はくどうさんこしょ)が伝わっています。
(↓ 慧日寺の光堂と中門、案内板、重文の白銅三鈷杵(磐梯町作成の模造品))
江戸時代になり、東北の雄藩会津藩の藩祖、保科正之(徳川家康の孫)は、遺言により自らの墓所と定めた磐梯山南麓に建立された土津(はにつ)神社に眠っていますが、会津藩の中心である会津鶴ヶ城から見るとちょうどそれは北東、つまり「鬼門」の方向に会津を守るようにあります。
また、会津の民衆は、仰角で一番高い山として見える磐梯山を、死者が天に召される時の通り道として、磐梯山を磐(いわ)の梯子(はしご)に見立て、「いわはしやま」と呼び、それが磐梯山の語源になったと言われます。
(↓ 会津鶴ヶ城)
(↓↓ 鶴ヶ城から見た磐梯山)
さて話は変わりまして、磐梯町の「道の駅ばんだい」のレストランには、元祖「磐梯山岩なだれカレー」があります。もろもろの歴史に彩られた磐梯山をカレーのライスに、カレールーの具を岩なだれに見立て、2本のアスパラガスは天に上るための梯子です。表磐梯を散策し会津磐梯山の過去に思いをはせたのち、食してみましょう!
表磐梯側の、磐梯山ジオパーク訪問の見事な完結となります。私たちは大地の恵みがあってはじめて存在し、生きているのですね。
磐梯山のふもとで是非それを実感してください。